2022/8/1
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「闘戦経」第4部 死生観 |
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今日は8月1日、月曜日、7時27分です。今日から8月です、自分自身は本格的なコンテンツによって大きな利益を上げていく。そのスタートになると考えています。 闘戦経は第4部死生観です。第4部の概略は、戦略論というより人生観として大事な死生観というところになると思います。章の番号は7、12、14、16、22章となります。 まず7章です、「捨てて勝つ」というタイトルです。読み下し文は「「風黄を払い、霜蒼きを萎(しぼ)ます有り。日南して暖無し。仰いで造花を観るに断有り。吾武の中に在るを知る。」ちょっと難しい表現ですね。いろんな例え話が書いてありますが、わかりやすいもので言うと、サケなどが回遊してきて卵を産み付けるけれど、それで死んでしまいます。その例をここであげています。サケは卵を産み付けた後、死んでしまいます。卵から孵った子孫が、自分の身を食べて、また大きくなって海に出ていくということなのです。ここにある死生観というのをいろんな角度から見ているのですが、草木が枯れて腐る、 第12章、「生死を超えた使命感を持て」というタイトルです。読み下し文は「死を説き生を説いて、死と生とを弁ぜず。而(しか)して死と生とを忘れて死と生との地を説けけ。」「どんなに苦心しても死の問題を解き、あるいは生の問題を解こうとしても、死と生とは考えて分かるものではない。この難問を解こうとするならば、死を忘れ、生を忘れ、自ら死生にとらわれることがなく大義に徹することだ。そうすればおのずと死と生とを悟り、また死すべき場合と生きるべき場合とが分かり、死生の問題もおのずから解決される」。 そういった使命感と覚悟を持てということなのです。死ぬこととか、生きることということで何かを恐れて生きていくということではなくて、自分の中に大義を持って生死を忘れて大義に徹せよ。その場面で死に場面が出てくれば、それには抗うことなく従い、生きることができればそれは生きるべきとして生きていくいうことです。 何か精神にとらわれて対応を忘れてしまうということがあってはならず、使命感を持って生きるということですね。もう1つ例えて言っているのが、吉田松陰先生が死ぬ直前に「生きるということで、自分の大義、自分の使命が達せられるならば喜んで生きるし、死ぬことによって自分の使命が果たせるならば喜んで死ぬ。生死を超えるんだ。使命を果たすということが大事なんだ。」と言っているのです。 なので「この世とあの世というようなことを宗教的に考えて死んだらどうなるとか、そういうことをいくら考えても解決の使用がない。あの世があるのかないのかわからない。しかし、日本民族がこの世でずっと生き続けていく、その大きな生命体の一部として、あるいはもっと言えば人類という大きな生命体の一部として自分は生きていく、そして全体のために役立つならば、自分は喜んで命を捧げるんだ」という死生観なのだというふうに先生はおっしゃっています。吉田松陰先生などもそうだし西郷隆盛先生も有名です。「命もいらず名もいらず」そういう風に西郷さんは言われたようですね。 孔子の儒教とか老子の道教からするとこういう考えにはならないです。「闘戦経」の考えを日本のオリジナルであり、孔子の儒教とか老子の道教というものを否定しています。キリスト教というのは永遠の命という約束があるあります。たとえ弾圧を受けて殉教しても、自分の命は永遠に生きるんだという風に思って、キリスト教の教えを守るそうです。 どこの国でも、独立戦争をしたり敵が侵略してきた時に抵抗して国の独立を守るという時には、やはり、宗教ではなく、国家全体のために自分の家族、兄弟、そして同法全体のために自分の命を犠牲にしても戦い、死をも辞さない、という考え方は多くの場合見られますよねと。この考え方は民族を問わずあります。個人の命が大事と説く孫子は正しいということになります。嘘をついても生き延びなければならない。 第14章、「死後にも生きる法」というタイトルです。 「気なる者は容を得て生じ、容を亡(うしな)って存す。草枯るるも猶(な)ほ疾を癒す。四体未だ破れずして心先づ衰ふるは、天地の則に非ざるなり。」読みが違っているかもしれませんが勘弁してください。「目に見えない心が動いて、気となり、気が動いて目に見える姿を得て人の前に現れ、あれこれとした形を生ずる。しかしてそのものの姿がなくなっても気の残っているものがある。草が枯れても、その草の成分がなお、病気を癒す薬になる」漢方薬とかそういうものが多いですよね。「しかるに、体がまだ生きて破れないのに、はやすでに心が衰えているというのは天地の法則ではない」という事です。「それはだめだ。漢方薬などを見ろ。草として死んでいるけれども、気が残っているから病を治すじゃないか。」 受け継いでいく人がいる限りは生きているわけです。ですから、そういうものを象徴するために靖国神社に祭られているのでしょうねえ。精神の価値というものが1つの世代から次の世代に伝わっていけば、特攻隊の死も玉砕部隊の死も無駄ではないということになります。死ぬべき時に死に甲斐のある死に方をするということも大事ですよねということです。 第16章、タイトルは「聖人の教えを聴け」という風にしています。「物の根たる者五あり。曰く、陰陽。曰く、五行。曰く、天地。曰く、人倫。曰く、死生。故にその初めの始を見る者は神たり。神にして衆人のために舌たる者を聖となす。」意味は、万物の根本を説くには5つの法がある、5つの原因論みたいなものがあるという意味です。1つは陰陽説、2つは五行説、3つは天地からいろんなものが生じるという説明、4番目は人倫の説、人間関係のことですね。5つは死生観、死生から物事を説く場合があり、その解説はいずれも、その初めの始めを見ると神だ、神ですよ、ということです。 「神にして衆人のために舌たる者を聖となす」だから聖人ですね。 これはなんと言ったの?途中にふと思ったのでしょうね。 第22章、「手段・方法を自由自在に用いるには」というタイトルにしています。読み下し文は「疑えば天地は皆疑わし。疑わざれば万物皆疑わしからず。唯だ四体の存没に随(したが)って万物の用いると捨つるとあり。」 大意は「疑うと天地は皆疑わしいものばかり、疑わなければ万物皆疑わしくはない。万物がわが味方であるとの信念に立って、おのが生と死とに従って万物を用いるか捨てるか、そのよろしきを得れば人たるの道を全うし、天地の道にもかなうことになる」ということです。勇気を見せることによって永遠の名誉を得るということです。これは、李登輝先生を思い起こしています。「万物を全て味方にせよ」と先生はおっしゃったということですね。「無自になれば自由自在だ」と仏教の言葉でいえば、空になれば、己を捨てれば自由自在だということをおっしゃっていたのでしょう。「金もうけしよう」「出世しよう」などの小さな我、小我、エゴから解放されて公のために、国のために生きるということになったらいろんな知略が湧いてきて、周りの人も自由自在に操ることができるのです。なぜなら自分を捨てているからです。 「最終的にも設けなければいけない、最終的に自分は出世しないといけないと思っていれば、思い切った手は打てない。しかし初めから自分を捨てていけば思い切った手が打てる」小さなことばっかり考えて大枠を見失っていると、大きな手が打てないとこういうことなんでしょうね。 まるでキッシーを見てるようですね。今の岸田内閣もちっちゃなことばっかり捉えて一生懸命なんかやったふりをして、大義はどこに行ったのかと本当に心配になるね。林外相の大義はどこにあるか全く見えない。ほんとに、国のために戦うと考えているとは思えない言動、行動ばかりでしたね。 以上です。 |
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