2025/11/5

251105日本の統治時代-韓国併合前後の朝鮮半島

韓国併合の真実

―歴史の声が語る“日本統治時代”の実像―

 

1.導入:歪められた記憶の向こうに——今こそ“実像”を見つめ直す時

「日韓併合条約の目的は侵略だったのか?」
この問いに、あなたはどんなイメージを抱くでしょうか。多くの人は、学校教育やメディアで語られる“加害と被害”の物語を思い浮かべるかもしれません。けれども、当時を生きた人々の声に耳を傾けると、まったく異なる風景が見えてきます。

1910年の併合から1945年の終戦までの35年間——。
この間、朝鮮半島では鉄道や道路、水道、電気などのインフラ整備が急速に進み、教育制度が整い、近代国家としての基盤が築かれました。証言者たちは「街は活気に満ち、人々は秩序ある生活を送っていた」と語ります。そこにあったのは“支配”ではなく、共に歩もうとする努力と希望でした。

しかし、戦後の政治的思惑とともに、その記憶は“侵略の物語”へと塗り替えられていきます。
あなたが今知っている「歴史」は、本当に事実でしょうか? 本記事では、証言と記録から見えてくる“日本統治時代の実像”をもとに、失われた真実を静かに掘り起こしていきます。

 

2.問題の説明:日韓併合の背景:なぜ日本は朝鮮半島を統治したのか?

日韓併合が行われた1910年——その背景には、単なる領土拡張ではなく、国際情勢の激しい変化と日本の安全保障上の必要性がありました。
当時の朝鮮半島は、李氏朝鮮の末期にあたり、国家としての統治力を失っていました。長年にわたり中国・清の属国として独立性を保てず、さらにロシアが南下政策を進める中で、朝鮮半島は列強の思惑が交錯する「アジアの火薬庫」と化していたのです。

明治維新を経て近代国家として歩み始めた日本にとって、朝鮮半島の不安定化は放置できない問題でした。もしロシアがこの地に影響力を強めれば、日本列島の安全そのものが脅かされる——この認識は政府内でも共有されていました。
伊藤博文が暗殺された1909年(安重根事件)をきっかけに、外交的な交渉による安定化の道は閉ざされ、ついに日本は国際社会の承認を得て併合に踏み切ります。これは独断ではなく、当時の英米列強が黙認、あるいは積極的に支持した国際合意のもとに行われたものでした。

また、当時の李完用(朝鮮総理大臣)は「日本の保護下でこそ、近代国家としての道が開ける」との考えを持ち、寺内正毅(韓国統監)との間で条約調印を行いました。つまり、併合は一方的な“侵略”ではなく、当時の指導層による“国家の選択”でもあったのです。

この時期、日本が目指したのは、支配ではなく「近代化の共有」でした。明治政府が自らの経験をもとに、朝鮮半島にも学校制度や行政組織、法律制度を整え、国として自立できる土台を築こうとしたことは、歴史資料からも明らかです。
その政策の多くは、後に韓国の産業や教育の礎となりました。
つまり、日韓併合とは“侵略の物語”ではなく、“近代化への道を共に歩むための選択”だったのです。

 

3.要因分析:教育・インフラ・経済:統治がもたらした近代化の現実

朝鮮半島の日本統治時代を語るうえで、最も顕著な変化は教育とインフラ、そして経済発展の飛躍的な進歩です。
日韓併合以前、李氏朝鮮では識字率がわずか6%にとどまり、教育制度も限られた上層階級の子弟にしか開かれていませんでした。しかし、日本が明治期の近代教育制度を導入したことで、教育は誰にでも平等に開かれたものとなりました。

当時を知るミン・ヒシク名誉教授は「日本人教師は公平で熱心であり、貧しい家庭の子どもでも学ぶ機会を与えてくれた」と回想しています。併合当初100校にも満たなかった学校数は、統治期の終わりには5000校以上へと増加しました。識字率は6%から22%へと上昇し、理工系教育が奨励されたことで、多くの技術者や学者が育成されました。これは、後の韓国の産業発展を支える“人材基盤”となったのです。

また、インフラの整備も国家の形を一変させました。鉄道・道路・上下水道・発電所など、近代国家として必要な公共基盤が整えられ、ソウルや釜山といった都市は「アジアでも屈指の整備都市」へと変貌しました。街には電車が走り、電灯が灯り、人々の生活様式は近代的なものへと変わっていきました。
カヤ大学のチェ・ギホ教授は、「日韓併合なくして近代化はなかった」とまで断言しています。

経済面でも、日本の投資と支援は絶大でした。朝鮮総督府の記録によると、1910年当時の歳入が約748万円に対し、歳出は3000万円を超えており、その差額はすべて日本政府が負担していました。つまり、日本は朝鮮の国家予算を“肩代わり”してインフラと教育を整備したのです。結果として、平均寿命は25歳から45歳に延び、人口は1300万人から2500万人へと倍増しました。

発展の象徴が、野口遵による朝鮮窒素肥料株式会社と水豊ダムです。巨大な水力発電によって化学肥料を生産し、北部を一大工業地帯へと発展させました。このダムは戦後も米軍の爆撃に耐え、今なお稼働しています。
このように、日本の技術と資本は朝鮮半島の産業基盤を築き、現在の韓国経済の礎となったのです。

当時の朝鮮社会には確かに貧富の差や社会的緊張もありましたが、それはどの近代国家にも見られる過渡期の現象です。重要なのは、日本の統治が「搾取」ではなく「育成」だったという事実。この視点を欠いたまま「支配」と断じることは、歴史の一側面しか見ていないことに等しいのです。

 

4.当時を生きた人々の証言——“協調”と“誇り”の記憶

歴史の真実を語るのは、教科書の行間よりも、その時代を生き抜いた人々の声です。
韓国併合期を実際に経験した世代の証言には、現代の一般的なイメージとは大きく異なる“現実の姿”が映し出されています。

たとえば、ソウルで生まれ育ったパク・チャウン氏は、自著『日本統治時代を肯定的に理解する』の中でこう語っています。
「街には電車が走り、水道と電気が整備され、誰もが安心して暮らせる時代だった。日本人と朝鮮人が共に働き、共に笑っていた。」
彼の記憶の中にあるのは、圧政ではなく秩序と共存の社会でした。実際、同世代の人々も「我々は日本統治に順応し、共に日常を送っていた」と証言しています。そこには、敵対よりも協調の意識が確かに存在していたのです。

また、1928年生まれの元韓国空軍大佐、チェ・サムユン氏の体験も興味深いものです。彼は15歳のとき、日本軍の少年飛行兵に志願しました。その志願倍率は60倍を超えたといわれ、多くの若者が“日本人として誇りを持って働く”ことを望んでいたのです。彼は回想します——
「日本人上官は公平で、我々を仲間として扱った。日本は、韓国の若者を将来の指導者として育てようとしていた。」
この言葉からは、“強制”ではなく“信頼と教育”の関係が読み取れます。

さらに、当時12歳だった女性の証言も残されています。いわゆる「女子挺身隊」に関して、彼女はこう語っています。
「15歳になったら入団できるのを楽しみにしていた。性的搾取などという話は聞いたこともなかった。」
彼女は、戦後の誤った報道が一人歩きしている現状を悲しみ、「当時の時代背景を無視して、現代の価値観で断罪すべきではない」と訴えました。別の老人も「もし本当に不当な行為があったなら、現地の警察や民衆が黙っていなかったはずだ」と証言しています。

これらの証言は、戦後の政治的プロパガンダによって歪められた歴史観に対する“生きた反証”です。
彼らの言葉に共通しているのは、「日本と共に生きた誇り」「互いに助け合った記憶」。
あなたがこれまで耳にしてきた“被害と支配の物語”とは、まるで別の歴史がそこには存在していたのです。

事実を見つめる勇気とは、感情に流されず、過去の声を真摯に受け止めること。
それが、本当の意味での歴史理解の第一歩なのではないでしょうか。

 

5.戦後の断絶と“反日”の構造——誰が歴史を歪めたのか

1945年の終戦を境に、朝鮮半島の記憶は大きく塗り替えられました。
戦前の協調や近代化の歩みは消し去られ、代わりに「日本による植民地支配」「民族抑圧」という物語が広がっていきます。
その転換点をつくったのが、李承晩政権による“親日派狩り”でした。

日本統治下で行政や教育に携わった人々、あるいは日本と共に国家建設に尽力した知識人たちは、「裏切り者」として糾弾され、財産を没収されました。李承晩大統領は、戦後の正統性を保つために「反日」を国家の基盤とし、“日本を悪とすることで、自国の政治的統合を図った”のです。
その結果、実際に半島の発展を支えた人々は排除され、歴史の表舞台から姿を消していきました。

加えて、戦後の冷戦構造がこの「反日構造」をさらに強化しました。
北朝鮮は南の政権を揺さぶるために、プロパガンダを通じて“反日ナショナリズム”を煽り、教育やメディアに浸透させていきます。
「慰安婦問題」や「強制徴用」などの言説も、その多くが政治的意図をもって作り出されたものであり、歴史的事実と大きく乖離しているものが少なくありません。
それらは、時の政権が外交カードとして利用し、国内の不満を外に向けるための“方便”として用いられたのです。

一方で、こうした構図を支えたのは、戦後の日本人自身の“沈黙”でもありました。
敗戦によって「加害者」という意識を植え付けられた日本は、歴史を語ることを避け、「誇りよりも贖罪」が美徳とされる風潮が生まれました。
その結果、韓国国内で一方的に広まった“被害の物語”が、いつしか国際社会でも定説のように扱われるようになったのです。

元韓国空軍大佐のチェ・サムユン氏は、晩年のインタビューでこう語っています。
「一部の勢力が“反日”を利用して国際関係を混乱させている。真実を語ることが、未来の平和への第一歩だ。」
彼の言葉は、政治的な思惑に翻弄された“歴史の犠牲者”としての警鐘にほかなりません。

つまり、現在の“反日感情”の多くは、日本統治時代の実相から生まれたものではなく、戦後の権力構造が生み出した“虚構の記憶”なのです。
この構造を理解しなければ、いつまでも日本と韓国は「誤解の壁」を越えることができません。
真の和解とは、感情的な謝罪ではなく、事実に基づいた相互理解の回復から始まるのです。

 

6.まとめ:事実に基づく未来へ——歴史を“断罪”から“理解”へ

歴史とは、本来「罪を裁くための記録」ではなく、「未来を導くための羅針盤」です。
それにもかかわらず、戦後の言説は長らく“断罪の歴史”に偏り、感情的な非難が事実を覆い隠してきました。
けれども、当時を生きた人々の証言と具体的な記録を見つめ直すと、そこに浮かび上がるのは、日本と朝鮮半島が共に近代化の道を歩もうとした努力の痕跡です。

教育・医療・インフラ・産業、そして人材育成。
それらは日本が朝鮮を“支配するため”ではなく、“自立させるため”に注いだ投資でした。
その結果、識字率は上昇し、平均寿命は延び、人口は倍増しました。
このような具体的な成果を「植民地支配」という一言で切り捨てることは、歴史の複雑さを矮小化することにほかなりません。

もちろん、統治の全てが完璧であったわけではありません。
制度の歪みや、地域ごとの格差、差別的な扱いが存在したことも否定できません。
しかし、それらはどの時代、どの国にもある“制度の不完全さ”であり、悪意をもって語られるような「圧政の構図」とは本質的に異なるものでした。
だからこそ今、必要なのは「善悪」で線を引く議論ではなく、なぜそうなったのか”を冷静に理解する姿勢です。

過去を正確に知ることは、誰かを責めるためではなく、同じ過ちを繰り返さないため。
その理解の積み重ねが、未来の信頼を築く基礎になります。
元将校のチェ・サムユン氏が残した言葉——
「日本人よ、誇りを取り戻せ。日本がなければ、アジアは欧米の植民地に沈んでいただろう。」
これは過去を美化するものではなく、事実を見据えた上で、未来を前向きに歩むためのメッセージです。

あなたが歴史を学ぶ理由も、きっとそこにあるはずです。
過去を恐れるのではなく、受け止める。
否定でも肯定でもなく、「理解する」ことで、初めて新しい時代が拓けます。
断罪から理解へ——その一歩を踏み出すことこそ、真の成熟国家への道なのです。

 

7.関連記事リンク:近代史を正しく知るために

この記事を通して見えてきたのは、「日本統治=悪」という単純な構図では語れない、より深い歴史の実相でした。
歴史を正しく理解するには、時代背景・証言・政治構造を多面的に捉えることが欠かせません。ここでは、あなたがさらに理解を深められるよう、関連する記事をいくつかご紹介します。いずれも、現代の視点から「日本とアジアの関係」を冷静に読み解く内容です。

1)「李登輝が遺した民主主義の種」⭐️

台湾の元総統・李登輝氏は、日本統治下の教育を受けながら、のちに台湾の民主化を導いた人物です。彼の言葉からは、「統治=抑圧」ではなく、「学びと責任」から生まれる独立精神が感じられます。日本と台湾の関係を通して、“共生の歴史”を考える視点を提供します。

2)「台湾モデルから学ぶ国家の成熟」⭐️

なぜ台湾は日本に敬意を抱き、韓国は今も強い反発を示すのか。
両国の歴史教育・政治構造・社会心理の違いを分析しながら、「成熟とは何か」を問い直します。戦後アジアの歩みを比較することで、日本の立ち位置を再確認できる内容です。

3)「戦後教育が失った“日本精神”」⭐️

戦後、日本は“贖罪意識”を植え付けられる一方で、自国の誇りや文化的自立心を失っていきました。
本記事では、GHQによる検閲と自己検閲文化の形成過程をひも解きながら、「なぜ日本人は自分の歴史を語れなくなったのか」を探ります。現代の教育改革にも通じる問題提起です。

4)「理念より現実:実行の政治がもたらす未来」⭐️

高市政権による積極財政政策を中心に、“理想ではなく現実を動かす政治”をテーマとした分析記事です。戦後の惰性を断ち切り、再び自立する国家を目指す日本の姿を描いています。政治と歴史の連続性を意識した読み応えのある一篇です。

5)「グローバリズムの終焉と日本の独立」⭐️

国際金融秩序の変化、BRICSの台頭、そして日本の再評価。
この流れを「新しい独立の時代」として捉え、経済的自立と精神的自立”を取り戻すための視点を提示します。過去の歴史をどう乗り越えるか、その実践的ヒントが詰まっています。

過去を正しく知ることは、未来を選ぶ力を持つことです。
あなたがこの記事を読み終えた今こそ、次の一歩として——歴史を学び直し、自らの目で真実を見抜く力を養ってください。
それが、激動の時代を生きる私たちに求められている“知の勇気”なのです。

 

以上です。